人前で感情を出すということ:異文化で気づいた「素直さ」の価値観の変化
海外での暮らしは、これまでの自分の中の「当たり前」が揺さぶられる連続です。中でも、人間関係における表現の仕方は、私の価値観に大きな変化をもたらした一つと言えます。今回は、人前での感情の出し方や意見の表明について、異文化での体験から私が何を学び、どのように変わったのかをお話ししたいと思います。
日本で育んだ「控えめさ」と、異文化での出会い
日本で生まれ育った私は、どちらかといえば感情を表に出すのが得意ではありませんでした。嬉しい時も、困った時も、まずは自分の内で感情を整理し、波風立てないように、周囲との調和を大切に振る舞うことが良いことだと、無意識のうちに身につけていたように思います。それは決して悪いことではなく、日本の社会においては円滑な人間関係を築く上で重要なスキルであったと感じています。
しかし、海外での新しい生活が始まると、人々の感情表現や意見表明の仕方が、私が慣れ親しんだものとはかなり異なることに気づかされました。例えば、些細なことでも大きな喜びや感動を全身で表現する人、不満や困惑を隠さずに顔に出したり言葉にしたりする人、そして自分の意見を明確に、時には力強く主張する人など、多様な「素直さ」の形を目にすることになったのです。
戸惑い、観察し、そして考えたこと
最初は、そうしたオープンな表現に戸惑いを覚えることもありました。例えば、会議中に誰かが異論を唱えるのを見て、「そんなにストレートに言って大丈夫なのだろうか」と心配になったり、友人が感情をむき出しにして話すのを聞いて、どう受け止めたら良いのか分からなくなったりしたこともありました。
一方で、彼らの「素直さ」が、人間関係においてポジティブに機能している側面も見えてきました。感情を共有することで共感が生まれやすくなったり、意見をはっきり伝えることで誤解が減り、建設的な議論が進んだりする場面です。私は、なぜ彼らはこれほどまでに自分をオープンに表現できるのだろうか、それは彼らにとって、あるいはこの文化において、どのような意味を持つのだろうか、と深く考えるようになりました。
そして、日本での自分の振る舞いを振り返ってみたのです。私は、感情や意見を抑えることで、波風を立てずに済む代わりに、相手に自分の真意が伝わりにくかったり、本当に求めていることが相手に届かなかったりした経験があったことを思い出しました。また、自分の内側に感情を溜め込みすぎて、苦しくなったこともありました。
ほんの少し、「素直」になってみる
この気づきを得てから、私は意識的に、ほんの少しだけ感情や意見を表現してみることにしました。例えば、心から嬉しいと思った時には、以前よりも大げさに喜んでみたり、何かについて自分の意見を聞かれた時には、「間違っているかもしれない」という恐れを乗り越えて、感じたままを伝えてみたりしました。
最初は非常に勇気が必要でしたし、ぎこちなかったと思います。しかし、驚いたのは、周囲の人々が私の控えめな変化を温かく受け入れてくれたことです。私の喜びに対して共に喜んでくれたり、私の意見に対して真剣に耳を傾けてくれたりしました。そして、自分自身も、感情や意見を表現することで、心が軽くなり、より深く他者と繋がれるような感覚を得られたのです。
「素直さ」の多様性と、私の中の変化
この経験を通して、私の中の「素直さ」という言葉の持つ意味が大きく変わりました。以前は、「素直=従順、周りに合わせる」といったニュアンスが強かったように思いますが、今では「素直=自分の内面にある感情や意見を、誠実に、そして適切な形で表現すること」だと捉えるようになりました。
もちろん、どの文化が良い、悪いという話ではありません。それぞれの文化には、その社会で生きる人々が円滑に、そして心地よく暮らすための知恵や工夫が詰まっているのだと思います。しかし、異文化に触れ、異なる表現方法があることを知り、それを自分自身でも試してみることで、私自身の表現の引き出しが増え、人間関係における柔軟性が増したように感じています。
多様な「素直さ」の形があることを知った体験は、私に自分自身をより深く理解する機会を与えてくれましたし、他者の表現に対しても以前より寛容になれたように思います。この変化は、その後の私の人間関係はもちろん、仕事や自己成長においても、かけがえのない財産となっています。