異文化の「失敗観」に触れて見えたもの:困難への向き合い方と挑戦する価値観の変化
海外に移住してしばらく経った頃、私の中に根強くあったある価値観が大きく揺さぶられる出来事がありました。それは、「失敗」に対する考え方です。
日本で育った私は、失敗することを極端に恐れる傾向があったように思います。失敗は恥ずべきことであり、避けなければならないもの。もし失敗してしまったら、落ち込み、自分を責め、隠したくなる。そんな感覚を強く持っていました。それは、周囲からの評価を気にする気持ちや、完璧であることを求められる雰囲気の中で培われたものかもしれません。
移住先での新しい環境では、予期せぬ困難に直面することが日常でした。言葉の壁、文化の違いによるコミュニケーションの齟齬、仕事での新しい挑戦。その中で、当然のように失敗も経験しました。些細なミスから、プロジェクト全体に影響を与えかねないような大きな失敗まで、様々な失敗を重ねました。
そのような時、私が戸惑ったのは、周囲の人々の反応でした。私が深く落ち込み、どう償うべきか、どう責任を取るべきかと考えている一方で、現地の同僚や友人たちは、驚くほどあっけらかんとしていたのです。もちろん、ミスの内容によっては反省や改善策の検討は行いますが、個人的な落ち込みや罪悪感を長引かせるような雰囲気はありませんでした。
彼らは、失敗を単なるネガティブな結果としてではなく、ごく自然なこと、あるいは学びの機会として捉えているように見えました。例えば、新しいことに挑戦してうまくいかなかったとき、「うまくいかなかったね。でも、これで〇〇については学べた」といった前向きな言葉が返ってきます。誰かが大きなミスをしても、「次に同じことを繰り返さないように、どうすれば良いか一緒に考えよう」と、建設的な議論がすぐに始まります。失敗した人を責めたり、能力を疑ったりする前に、まずは状況を改善し、次に繋げることに焦点が当てられているのです。
ある時、私は新しいプロジェクトで大きなミスをしてしまい、心底落ち込んでいました。日本の感覚では、きっと厳しく叱責されるだろう、あるいは信頼を失うだろうと考えていました。しかし、上司は私を呼び出し、「失敗は誰にでもある。特に新しい挑戦にはつきものだ」と静かに言いました。そして、「重要なのは、この経験から何を学び、次にどう活かすかだ。今回の失敗から得た教訓をチームで共有し、今後のリスク管理に役立ててほしい」と述べたのです。その言葉を聞いたとき、私の心に長らくあった「失敗=悪」という強固な結びつきが、少し緩んだような感覚を覚えました。
このような経験を重ねる中で、私は徐々に失敗に対する見方を変えていきました。失敗は恥ずかしいことではなく、成長のための必要なステップであると理解するようになりました。挑戦しなければ失敗もありません。ということは、失敗は挑戦の証でもあります。失敗を恐れて何も挑戦しないことの方が、よほどもったいないことだと考えるようになったのです。
また、困難な状況に直面した際に、必要以上に落ち込んだり、自分を責めたりする時間が減りました。代わりに、「この状況から何を学べるか」「次にどうすれば良いか」という問いを自分に投げかけるようになりました。これは、いわゆる「回復力」(レジリエンス)と呼ばれる力に近いものかもしれません。困難から立ち直り、そこから学びを得て、さらに強く前進しようとする力。異文化の人々が持つその姿勢に触れる中で、私自身もその力を少しずつ身につけていったように感じています。
この価値観の変化は、私のその後の人生に大きな影響を与えました。新しいことへの挑戦を躊躇しなくなり、困難な状況にも前向きに取り組めるようになりました。完璧主義を手放し、過程や学びそのものに価値を見出せるようになったことは、精神的なゆとりにも繋がっています。
異文化の「失敗観」に触れたことは、私にとって非常に大きな学びでした。それは、自分の中に無意識のうちに刷り込まれていた固定観念に気づき、それを解き放つ経験でもありました。多様な価値観に触れることは、自身の視野を広げるだけでなく、自分自身の内面を深く見つめ直し、よりしなやかに生きるためのヒントを与えてくれるのだと、改めて感じています。