異文化の「決め方」に触れて気づいたこと:決断と責任に関する私の価値観の変化
海外での生活は、日常生活の様々な場面で、それまで当たり前だと思っていた自分の価値観や行動パターンに疑問符を投げかけます。特に、多文化が交錯する環境での人間関係においては、それぞれの文化背景を持つ人々との間で、無意識のうちに形成された「普通」の違いに直面することが少なくありません。
私が経験した中でも印象深かったのは、「物事をどのように決めるか」という、意思決定のプロセスにおける文化的な違いでした。日本で育った私は、集団での合意形成を重視し、場の空気を読みながら、皆が納得できる落としどころを探ることに慣れていました。もちろん個人で決断することもありますが、特に複数人で何かを進める際には、周囲との調和を最優先する傾向があったように思います。
海外、特に私が暮らしていた国では、この「決め方」のスタイルが随分と異なると感じました。例えば、友人たちとの旅行計画を立てる際のことです。いくつかの候補地があり、それぞれに魅力がありましたが、なかなか一つに絞り切れませんでした。日本であれば、皆で意見を出し合いながら、多数決や、あるいは誰かが「Aにしたいかな」と控えめに提案し、他の人がそれに賛同する、といった形でゆるやかに決まっていくことが多いかもしれません。
しかし、その時の友人たちは違いました。皆が自分の希望を明確に主張し、その理由を述べます。「私は絶対に海に行きたいからBがいい」「歴史が好きだからC以外考えられない」といったように、それぞれの立場から揺るぎない意見が次々と出されました。驚いたのは、意見の対立を恐れる様子が全くなかったことです。彼らにとっては、自分の意見をはっきりと伝えること、そして他の人の意見も同様に尊重することが、健全なコミュニケーションであるかのようでした。
私は最初、戸惑いを隠せませんでした。「皆が納得できる結論を出すには、どこかで誰かが譲歩する必要があるのではないか」「こんなに意見がぶつかり合って、関係が悪くならないのだろうか」と不安に思ったのです。自分の意見を強く主張することに慣れていなかった私は、どう発言すれば良いのかも分かりませんでした。控えめに「どこでもいいよ」と言うこともできましたが、それでは議論に参加していないことになります。
彼らの「決め方」を観察する中で、私はいくつかの気づきを得ました。一つは、彼らが自分の意見に責任を持っているということです。自分の希望を明確に主張するからこそ、その選択の結果に対しても責任を負う覚悟があるように見えました。皆で曖昧に決めるのではなく、一人ひとりが主体的に関わることで、後で「誰かが決めたことだから」と責任を回避することができない構造になっているのです。
もう一つは、意見の多様性を受け入れる文化です。意見が異なっても、それは単にそれぞれの考えが違うだけであり、人間性や関係性を否定するものではないという認識があるように感じました。対立はむしろ、様々な視点を取り入れてより良い結論にたどり着くための自然なプロセスであると捉えているかのようでした。
この経験を通して、私自身の「決断」や「責任」に関する価値観が揺さぶられました。これまでは、波風を立てずに皆で円満に進めることを優先し、そのために自己主張を抑えたり、あるいは誰かの意見に「乗っかる」形で決断したりすることが多かったかもしれません。しかし、彼らのスタイルに触れ、自分の意見を明確に持ち、それを主張すること、そしてその選択に責任を持つことの重要性を強く意識するようになりました。
もちろん、どちらの「決め方」が良い、悪いということではありません。文化によって、集団と個人の関係性や、対立に対する捉え方が異なるために生じるスタイルの違いです。日本的な合意形成のスタイルにも、集団の調和を保ち、きめ細やかな配慮を可能にする良さがあります。
しかし、この異文化での体験は、私にとって自分自身の意思決定のスタイルを見つめ直す貴重な機会となりました。今では、状況に応じて柔軟にスタイルを使い分けることができるようになったと感じています。個人で決めるべきこと、皆でじっくり話し合うべきこと、そして自分の意見をはっきりと伝えるべき場面。それぞれの状況に合わせて、より主体的で、そして責任を伴う決断ができるよう心がけています。
異文化に触れるということは、このように、自分の中に当たり前のように存在していた価値観が、決して唯一絶対のものではないと気づくプロセスでもあります。そして、その気づきは、自分自身の視野を広げ、多様な考え方や生き方を受け入れる柔軟性を育んでくれるのだと実感しています。