見知らぬ人への気前の良さ:異文化で触れた「お金」の新しい意味
海外での生活は、私にとって多くの「当たり前」が根底から揺さぶられる連続でした。特に、多文化の中で人々と関わる中で、お金に対する価値観が大きく変化したことは、私の人生観にも影響を与えています。今回は、見知らぬ人への気前の良さに触れ、お金の新しい意味を学んだ体験についてお話ししたいと思います。
自分の中の「お金」の価値観
日本で育った私は、お金は将来のために貯蓄するもの、無駄遣いはしないもの、そして個人の努力や仕事の対価として得られるもの、という感覚を強く持っていました。計画的に使い、堅実に増やすことが良しとされ、寄付やチャリティは特別な行為であり、ある程度の経済的余裕がある人がするものだと考えていました。もちろん、困っている人に手を差し伸べることの大切さは理解していましたが、それが自分自身の懐を痛めてまで行う、日常的な行動の一部になるという感覚は薄かったように思います。
異文化で目にした光景
海外移住してしばらく経った頃、私はある光景に繰り返し遭遇し、戸惑いを覚えるようになりました。それは、カフェや街角、あるいは交通機関の中で、見知らぬ困っている人(ホームレスの方や、明らかに経済的に困窮している様子の人など)に対して、周りの人がごく自然に、そして躊躇なくお金や食べ物を提供している姿でした。
例えば、カフェでコーヒーを注文していると、店の外に座っている方を見て、自分の分のコーヒーと一緒にその方の分の軽食や飲み物を買って手渡す人がいました。あるいは、電車の中で、お金を求めている方に対して、乗客が次々と財布から小銭や紙幣を取り出して渡す場面もありました。彼らは、その行為に対して特別な表情を見せるわけでもなく、見返りを期待している様子もなく、ただ当然のことのように振る舞っているように見えました。
最初は、その光景に驚き、どう反応すれば良いのか分かりませんでした。「なぜそこまでするのだろう」「騙されているのではないか」「自分には関係ないことではないか」といった考えが頭をよぎりました。それまで自分が持っていた、「お金は自分のために使うもの」「他人の問題に深入りしない」という価値観との間に大きなギャップを感じたのです。
内省と価値観の変化
しかし、そのような光景を繰り返し目にするうちに、私の内面で変化が起こり始めました。彼らの行動は、単なる「施し」ではなく、人間としてごく自然な「共感」や「連帯」の表れなのではないか、と感じるようになったのです。そこには、計算や打算ではなく、困っている人がいたら助けるのが当たり前だという、ある種の文化的な規範や、人としての温かさがありました。
私は、「自分のお金を他人のために使う」という行為が、単に物質的な支援に留まらず、人と人との繋がりを生み出し、社会全体の絆を強める力を持っていることを実感し始めました。お金は、単に個人の富を築くための道具ではなく、他者への思いやりや、社会との関わりを表現するためのツールでもあるのだと気づかされたのです。
この気づきは、私のお金に対する価値観だけでなく、人間関係に対する見方にも影響を与えました。それまでは、人間関係は「自分と相手」という一対一の関係性や、近いコミュニティ内での関わりが中心だと考えていましたが、見知らぬ人への気前の良さに触れたことで、社会全体が緩やかではあるけれども、互いを支え合う大きな繋がりの中に存在しているのだ、という感覚を持つようになりました。そして、その繋がりの中で、自分も何か貢献できることがあるのかもしれない、と考えるようになったのです。
新しい行動と学び
この体験を通して、私は以前よりも自然に、困っている人に対して手を差し伸べることができるようになりました。少額の寄付をしたり、必要な人に食べ物を分けたりすることは、私にとって特別なことではなく、日常生活の一部になりつつあります。もちろん、全てのケースで支援ができるわけではありませんし、それぞれの状況を見極める必要はありますが、以前のような躊躇や「自分には関係ない」という感覚は薄れました。
異文化の中で触れた見知らぬ人への気前の良さは、私にお金というものの新しい意味を教えてくれました。それは、単なる経済的な価値に留まらず、人間の優しさや、社会における連帯感を形作るための大切な要素であるということです。この学びは、私自身の価値観を広げ、人間関係や社会との向き合い方にも変化をもたらしています。異文化に触れることは、自分の中の「当たり前」を問い直し、新しい価値観を取り入れる貴重な機会なのだと改めて感じています。