異文化で気づいた、多様な「美しさ」の基準と私の価値観の変化
海外で暮らすということは、それまで自分が「当たり前」だと思っていた多くの価値観が揺さぶられる経験の連続です。その中でも特に、私自身の根深い部分にまで影響を与えたのが、「美しさ」に対する価値観の変化でした。
移住する前、私は日本で育ち、日本の社会が提示する「美しい」とされる基準に無意識のうちに強く影響を受けていました。それは例えば、肌の色、体型、メイクの仕方、ファッションのトレンドなど、非常に具体的なイメージとして自分の中に根付いていたように思います。自分の外見に対しても、その基準と比べては一喜一憂するようなところがありました。
見慣れない「美しさ」との出会い
海外に出て、まず衝撃を受けたのは、街を歩く人々の外見の多様さでした。肌の色も、髪の色や質感も、体型も、ファッションも、本当に様々です。そして、何よりも印象的だったのは、そうした多様な外見を持つ人々が、それぞれに自信を持って輝いているように見えたことです。
最初は、日本の基準で物差しを当ててしまい、見慣れない外見に対して戸惑いを覚えることも正直ありました。しかし、時間を過ごすうちに、その「見慣れない」こと自体が、自分の視野がいかに狭かったかを物語っているのだと気づかされました。
ある時、現地の友人と話していた際に、彼が当たり前のように「〇〇さんの笑顔は本当に美しいね」と、外見の典型的な特徴ではなく、その人の振る舞いや内面からくる輝きを「美しい」と表現しているのを聞きました。また別の友人からは、私自身の特定の身体的特徴について「それが君らしさで、とても魅力的だ」と言われたこともあります。日本ではあまり肯定的に捉えられることが少ないかもしれないと感じていた部分を、彼らはごく自然に、かつ誠実に評価してくれたのです。
私の中の「普通」が崩れるとき
こうした経験は、私にとって非常に新鮮で、同時に、自分がこれまでどれだけ画一的な「美」の基準に囚われていたのかを痛感させられるものでした。日本のメディアや社会が提示する「理想」とされるイメージが、いかに多様な「美しさ」のごく一部でしかないのか。そして、その狭い基準に自分を当てはめようとすること自体が、自分自身の個性を否定することになりかねないのだと気づきました。
異文化に触れる中で、「美しい」と感じる対象が、徐々に内面的な魅力や、その人らしさ、自信、生き生きとした表情へとシフトしていきました。外見的な特徴も、特定のタイプに限定されるのではなく、その人の持つ個性や背景と一体となったものとして捉えるようになったのです。
このような変化は、他者への見方だけでなく、自分自身の外見に対する意識にも大きな影響を与えました。以前ほど、日本の「理想像」に近づこうと無理をすることがなくなり、自分の身体や顔立ちの個性を受け入れ、むしろ肯定的に捉えられるようになりました。メイクやファッションも、誰かにどう見られるかよりも、自分が心地よいか、自分らしいか、という基準で選ぶことが増えました。
広がる視野と自己肯定感
この「美しさ」に対する価値観の変化は、単に外見の問題に留まりませんでした。それは、多様な価値観を認め、受け入れることの重要性を教えてくれる、より大きな学びへと繋がっていったのです。
人間関係においても、外見だけで人を判断するのではなく、その人の内面や考え方、経験に目を向けることの大切さを改めて認識しました。多様なバックグラウンドを持つ人々と深く関わる中で、それぞれの文化が育む価値観や美意識には、深い歴史や哲学が息づいていることを感じました。
海外での経験を通じて、私は自分自身の「美しさ」の基準を大きく広げることができました。それは、自分を他者と比較して評価するのではなく、自分自身の個性を認め、愛することへと繋がる道でもありました。この変化は、私の自己肯定感を高め、より自由に、そして自分らしく生きるための大きな一歩になったと感じています。異文化に触れることで得られる学びは、時に自己の根幹にまで及び、人生を豊かに彩ってくれるものだと、私の体験は語っています。