私の異文化体験談

異文化環境での議論体験が私に教えてくれたこと:沈黙と発言の価値観の変化

Tags: 異文化コミュニケーション, 価値観の変化, 自己表現, 議論, 海外体験

海外での生活は、言葉や習慣の違い以上に、人々の考え方や価値観の違いを肌で感じる機会の連続でした。特に、コミュニケーションのスタイルにおける違いは、私自身の人間関係の築き方や自己表現のあり方に大きな影響を与えた経験の一つです。今回は、多文化環境での「議論」という場面を通して、私の価値観がどのように変化していったのかをお話ししたいと思います。

海外の授業で感じた「沈黙」の重圧

私が海外の大学院で授業を受け始めた頃、最初に直面した大きな壁は、授業中の活発な議論でした。クラスメートたちは、教授の問いかけや他の学生の発言に対して、驚くほど積極的に、そして遠慮なく自分の意見を述べるのです。もちろん、事前に授業の内容をしっかり予習しているからこそできることではありますが、それにしても、皆が皆、手を挙げ、時には遮るようにしてでも発言権を得ようとする姿に、私は圧倒されていました。

当時の私は、日本で培ったコミュニケーションスタイルが染み付いていました。日本では、授業中に積極的に発言する学生は一部であり、多くの場合は先生の話を静かに聞き、発言するとしても手を挙げて指名されてから、という形式が一般的でしょう。会議などでも、まずは皆の意見を聞き、場の空気を読みながら、自分の意見は控えめに述べる、あるいは意見そのものを飲み込んでしまうことも少なくありませんでした。「出る杭は打たれる」という言葉があるように、目立つことや、皆と違う意見を述べることに対して、潜在的なためらいがあったように思います。

そのような感覚を持って海外の授業に参加した私にとって、クラスメートたちの「発言することこそが参加であり、評価される」という姿勢は、まさにカルチャーショックでした。沈黙していると、まるで何も考えていない、授業についていけていない、あるいは興味がないと見なされているのではないかと感じ、居心地の悪さを覚えました。

発言への葛藤と小さな一歩

正直なところ、最初は発言することに強い抵抗がありました。自分の語学力に自信がなかったこともありますが、それ以上に、自分の意見が間違っていたらどうしよう、他の人の素晴らしい意見の邪魔になるのではないか、という恐れがあったからです。日本の環境では、議論の中で完璧な意見を述べることや、皆が納得するような意見を提示することが求められているような気がしていました。そのため、中途半端な理解や、まだ固まっていない考えを言葉にすることに躊躇があったのです。

しかし、何度か授業を受けるうちに、このままではいけないと感じるようになりました。授業の内容をより深く理解するためには、自分の疑問点や考えを表明し、他の学生や教授とぶつけ合うことが不可欠であると気づいたからです。また、クラスメートたちは、たとえ意見が間違っていたとしても、その発言自体を尊重し、そこから議論を深めていく様子を見て、私が抱いていた「完璧な意見でなければならない」というプレッ藤が少しずつ和らいでいきました。

ある時、勇気を出して授業中に手を挙げ、質問をしてみました。完璧な英語ではなかったかもしれませんし、もしかしたら的外れな質問だった可能性もあります。しかし、教授は私の質問を丁寧に聞き、それに答えてくれました。そして、他の学生がその質問に触発されて、さらに議論が広がっていったのです。この小さな成功体験は、私にとって非常に大きな意味を持ちました。自分の声が、議論の一部となり、貢献できたという実感を得られたからです。

「沈黙」と「発言」の価値観の変化

この経験を通して、私は「沈黙」と「発言」に対する価値観を大きく見直すことになりました。以前は、沈黙していることを必ずしも悪いことだとは思っていませんでした。むしろ、相手の話をじっくり聞くこと、場の調和を乱さないことこそが美徳であり、その中に深い思慮や共感があるのだと考えていたからです。もちろん、その価値観が全て間違っているわけではありません。傾聴は人間関係において非常に重要ですし、場の調和もまた大切な要素です。

しかし、多文化環境、特に私が経験した欧米の教育環境においては、「発言すること」が自己の存在を表明し、積極的に学習に関与していることの証であると強く感じました。それは、単に自分の意見を押し通すということではなく、多様な視点を提供し、共に学びを深めていくプロセスへの参加を意味するのです。沈黙は、時に思慮深さを示すこともありますが、意欲のなさや理解不足と見なされる可能性も同時に存在するのだと知りました。

この変化は、私に新たな気づきをもたらしました。それは、「どちらか一方が絶対的に正しい」のではなく、状況や文化によって「沈黙」と「発言」の持つ意味合いや価値が異なりうるということです。そして、異なる価値観が存在する中で、自分がどのようにコミュニケーションを取るかを選択する必要があるということです。海外での経験は、私に「自分の声を持つこと」の重要性を教えてくれましたが、それは同時に、相手の声に耳を傾けることの重要性を再認識させるものでもありました。

新たな自己表現の形を求めて

この議論体験を通して、私は自分の内にある考えや感情を、状況に応じて適切な形で表現することの大切さを学びました。以前のように、意見を述べることを恐れるのではなく、自分の理解度や疑問点を率直に伝え、議論の輪に入っていくことの価値を理解したのです。それは、完璧を目指すのではなく、不完全であっても良いから、まずは参加してみる、という姿勢への変化でもありました。

この変化は、学業の成績向上だけでなく、友人関係やその後の仕事におけるコミュニケーションにも良い影響を与えました。自分の意見を適切に伝えることで、相手との相互理解が深まり、より建設的な関係を築くことができるようになったからです。また、異なる意見を持つ人との対話を通じて、自分の視野が広がり、物事を多角的に捉える力が養われたと感じています。

異文化環境での議論体験は、私にとって、単なるコミュニケーションスキルの習得以上の意味を持つものでした。それは、自己表現のあり方、そして自分自身の価値観について深く内省する機会を与えてくれたのです。文化によって「良い」とされるコミュニケーションスタイルは異なりますが、どのような環境においても、自分の内なる声に耳を傾け、それを外の世界と繋げようと努力することの価値を、私は海外で学びました。そしてそれは、帰国してからも、多様な人々と関わっていく上での大切な基盤となっています。