私の異文化体験談

異文化で気づいた「休むこと」の価値:立ち止まる勇気と私の人生観の変化

Tags: 異文化体験, 価値観の変化, 働き方, ライフスタイル, 休息

海外へ移住してからの日々は、それまで日本で培ってきた私の「当たり前」が、必ずしも世界の「当たり前」ではないことを痛感させられる連続でした。仕事の進め方、人間関係の築き方、時間の使い方など、様々な側面に触れる中で、特に私の価値観を揺るがした一つに、「休むこと」に対する考え方の違いがありました。

「休むこと」への罪悪感

移住する前の私は、どちらかといえば「勤勉であること」や「常に何か生産的な活動をしていること」に価値を見出す傾向がありました。仕事でもプライベートでも、隙間時間があれば何かを学ぶか、次に繋がる準備をするべきだと考えていたのです。週末に予定がないと、少し不安になったり、何か有益なことをしていない自分に小さな罪悪感を覚えたりすることもありました。

これは、日本の文化や教育の中で自然と身についた価値観だったのかもしれません。働き詰めることが美徳とされ、長時間労働が当たり前とされる環境に長くいたことで、「休むこと=非生産的=悪」という無意識の刷り込みがあったように思います。

異文化で見た「罪悪感なき休息」

移住先の国で働き始め、私は現地の同僚や友人たちが、驚くほど気軽に休暇を取り、心からリラックスしている様子を目の当たりにしました。例えば、金曜日の午後に突然「来週は南の島に行くから」と言って颯爽とオフィスを出る同僚。バカンス中は仕事のメールは一切確認せず、完全にオフラインになる友人。彼らは「休むこと」に対して、一切の罪悪感やためらいを感じていないように見えました。

最初は戸惑いを感じました。そんなに休んで仕事は大丈夫なのだろうか、周りに迷惑がかかるのではないか、といった考えが頭をよぎったのです。私の「休むこと」に対する価値観では、そこには必ず何らかの「理由」(病気や冠婚葬祭など)や「代償」(後で倍返しで働く必要があるなど)が伴うべきだと感じていたからです。彼らの態度は、私のそうした固定観念を静かに問い直すものでした。

休息は投資であるという価値観

彼らと話す中で見えてきたのは、「休むこと」は単なる休息ではなく、次の生産活動のための「投資」であり、心身の健康を保ち、生活の質を高めるための「不可欠な時間」であるという価値観でした。彼らにとって、休暇は働くことと同じくらい、あるいはそれ以上に大切な時間であり、自分自身や家族、友人との関係を育むための貴重な機会なのです。

この考えに触れた時、私の内側で何かが音を立てて崩れるのを感じました。「常に生産的でなければならない」という強迫観念が、少しずつ薄れていったのです。彼らのように、罪悪感なく、心からリラックスする時間を意識的に設けることの重要性を理解し始めました。

立ち止まる勇気、そして人生観の変化

私自身も、意図的に「何もしない」休息を取るようになりました。最初はやはり落ち着かず、つい仕事のメールをチェックしたり、何か勉強を始めたりしそうになりました。しかし、意識して「ただ休む」ことを続けていくうちに、心身が軽くなり、日々の小さなことに幸せを感じられるようになり、新しいアイデアが自然と湧いてくることに気づいたのです。

この経験を通して、私の人生観は大きく変わりました。以前は、常に目標に向かって走り続けることこそが価値だと考えていましたが、立ち止まり、周囲を見渡し、自分自身と向き合う時間の重要性を知ったのです。人生はマラソンのようなもので、走り続けるためには適切な休憩が必要不可欠であり、その休憩時間こそが、その後の走りを豊かにするのだと理解しました。

異なる価値観に触れることの意味

異文化で「休むこと」に対する価値観の違いに触れたことは、私にとって非常に大きな学びでした。それは、単に休暇の取り方が違うという話ではなく、人生における「働くこと」と「休むこと」のバランス、そして自分自身の幸福や内面的な充足にどれだけ価値を置くかという、より深い問いへと繋がっています。

もしあなたが、今の環境で「常に何かをしていなければならない」「休むことに罪悪感を感じる」といった感覚を抱えているなら、もしかしたらそれは、あなたが育った環境や文化によって形成された価値観かもしれません。異文化に触れる機会があれば、その「当たり前」が揺らぎ、自分にとって本当に大切なものは何か、改めて考え直すきっかけを与えてくれるでしょう。立ち止まる勇気を持つこと、それは、自分自身の人生をより豊かにするための第一歩であるのかもしれません。