私の異文化体験談

異文化の時間感覚に触れて気づいたこと:自分の中の「普通」の変化

Tags: 異文化理解, 価値観の変化, 時間感覚, 人間関係, 海外生活

異文化の時間感覚に触れて気づいたこと:自分の中の「普通」の変化

海外へ移住してしばらく経った頃、私はある日々の習慣や感覚に強い戸惑いを覚えるようになりました。それは、「時間」に対する感覚の違いです。日本では「時間厳守」が強く意識され、待ち合わせや会議に遅れることは、多くの場合、相手に失礼にあたる行為と見なされます。私も当然のようにその価値観を持って海外へ渡りました。しかし、移住先の国では、その「当たり前」が全く通用しない場面に頻繁に遭遇したのです。

友人との待ち合わせで、相手が約束の時間から平気で30分、1時間と遅れてくることがありました。最初は正直、苛立ちを覚えました。時間を守らないのは、自分を軽視しているのではないか、とさえ感じたのです。しかし、彼らに悪気がある様子は全くなく、遅れたことに対して深く謝罪するわけでもありません。ただ「遅れてごめんね」とあっけらかんと言うだけです。一方で、彼らは会っている間は時間を気にせず、ゆったりとした時間を共有しようとします。そのギャップに、私はどう対応すれば良いのか分からずにいました。

仕事の場面でも同様の体験がありました。会議が予定時刻に始まらない、アポイントメントの時間になっても担当者が現れない、といったことが日常的に起こるのです。日本では、会議が始まらないのは準備が間に合っていないか、何らかのトラブルが発生していることが多いですが、ここではただ「まだ始まらない」というだけのように見えました。事前にアジェンダが共有されていても、話があらぬ方向へ逸れたり、予定していた時間を大幅に超過したりすることも珍しくありません。

これらの体験を通して、私は自分が「時間厳守こそが誠実さであり、相手への敬意である」という価値観に強く縛られていたことに気づかされました。そして、それはあくまで私が育った文化の中で形成された「普通」であり、普遍的なものではないという事実を突きつけられたのです。彼らが時間に「ルーズ」なのではなく、単に時間に対する優先順位や考え方が異なるだけなのかもしれない。そう考え始めると、少しずつ彼らの行動を別の視点から捉えられるようになりました。

彼らにとって、時間通りに物事を始めることよりも、その場にいる人との関係性や、今行っている会話そのものの方が重要なのかもしれません。あるいは、時間に厳格であることよりも、変化に柔軟に対応すること、予期せぬ出来事を受け入れることの方が、より価値があると感じているのかもしれません。そういった可能性を考え始めたとき、私の中の「時間厳守=善」という強固な価値観が少しずつ揺らぎ始めたのを感じました。

もちろん、仕事で締め切りを守るといった場面では、一定の厳密さは必要です。しかし、個人的な人間関係においては、少し時間感覚を緩めてみることで、見えてくるものがあることも学びました。待たされることに過度にストレスを感じず、むしろその時間を使って別のことをしたり、相手が来たときに心穏やかに迎え入れたりするゆとりが生まれたのです。また、自分が時間通りに到着した際に、相手が遅れてきても、それは自分という人間を軽視しているわけではないのだ、と冷静に受け止められるようになりました。

この時間に関する価値観の変化は、私の人間関係にも影響を与えました。時間を巡る小さなストレスが減ったことで、よりリラックスして人と接することができるようになったのです。また、相手の行動の背景にあるかもしれない異なる価値観を想像する習慣がつき、多様な考え方を受け入れる寛容さが育まれたように感じます。自分の中の「普通」は、あくまで数ある「普通」の一つに過ぎない。その気づきは、その後の私の異文化環境での生活や人間関係において、非常に重要な示唆を与えてくれたと考えています。異なる文化圏の人々と関わる中で、自分が当たり前だと思っていることが当たり前ではない、という経験は多くあります。その一つ一つが、自分自身の価値観を見つめ直し、視野を広げる機会となるのだと改めて感じています。