日常の「当たり前」が崩れたとき:異文化で気づいた自分の中の「普通」の変化
海外での生活は、新しい発見の連続です。それは、観光地や歴史的な建物といった非日常的なものだけではなく、むしろ日々の暮らしの中で、これまで自分が無意識に「当たり前」だと思っていたことが全く通用しない、あるいは異なる形で存在していることに気づく瞬間にこそ、強く感じられるように思います。私にとって、この「当たり前が崩れる」体験こそが、異文化理解の入り口であり、自分自身の価値観を深く見つめ直す機会となりました。
私の中の「普通」とは何か
海外に移住する前、私は自分が比較的柔軟な考え方を持っていると思っていました。しかし、いざ異文化の中に身を置いてみると、いかに多くのことが、生まれ育った環境における「普通」という基準に強く影響されていたかを痛感することになりました。
例えば、初めて現地のスーパーマーケットに行った時のことです。陳列されている商品の種類や包装だけでなく、お客さんのレジでの振る舞いや店員さんとのやり取り一つとっても、私が慣れ親しんだものとは異なっていました。日本では当たり前だと思っていた、ある種の丁寧さや効率性が、そこにはありませんでした。最初は、「なぜもっとこうしないのだろう」という戸惑いや、時には小さな苛立ちさえ感じたことを覚えています。それは、単に「違う」というだけでなく、自分の「普通」から外れていることへの無意識の抵抗だったのだと思います。
また、人との待ち合わせの時間に対する感覚も、私にとって大きな「普通」の揺らぎでした。日本では5分前行動が推奨されるように、約束の時間に正確に、あるいは少し早く到着することが一般的です。しかし、私が暮らした国では、約束の時間より遅れることが珍しくありませんでした。最初のうちは、「時間を守らない失礼な人たちだ」と内心で思っていましたが、友人たちが悪気なく遅れてくる様子を何度も見たり、彼らの他の言動に触れるうちに、それは「失礼」なのではなく、単に「時間」というものに対する価値観や優先順位が自分とは違うのだと気づき始めました。彼らにとっては、その場で話している相手との会話や、移動中に遭遇した出来事など、流動的な状況の方が、固定された時間という約束よりも優先される場合があるのです。
「普通」が揺らぐことから生まれたもの
このような日常的な「当たり前が崩れる」体験は、最初は心地よいものではありませんでした。自分の基準が通用しないことへの不安や、どう振る舞うべきか分からない戸惑いがありました。しかし、その体験を繰り返すうちに、一つの変化が生まれました。それは、「なぜ彼らはそうするのだろう」という疑問を持つようになったことです。
単に「違う」と判断するのではなく、その違いの背景にある文化や歴史、あるいは個人の考え方に思いを馳せるようになりました。スーパーでの振る舞い一つをとっても、それはもしかしたら、サービスに対する考え方、あるいは地域社会の結びつきの強さから来ているのかもしれない。時間感覚の違いも、社会全体の時間に対するプレッシャーの度合いや、人間関係における柔軟性を重視する姿勢から生まれているのかもしれない。そう考えるようになると、違いに対する見方が変わってきました。それは、「劣っている」とか「間違っている」ということではなく、単に「多様なあり方の一つである」と捉えられるようになったのです。
そして、この理解は、自分自身の「普通」がいかに限定されたものであったかを明確に教えてくれました。自分がこれまで疑うこともなく「これが普通だ」と思っていた多くのことが、実は数ある「普通」の一つに過ぎなかったのだという認識です。この認識は、私の価値観に大きな変化をもたらしました。
価値観の変化とその後の影響
「普通」の相対性に気づいたことは、私に多様な価値観に対する寛容さをもたらしました。以前であれば受け入れられなかったかもしれない考え方や行動様式に対しても、「そういう考え方もあるのだな」「その文化ではそれが普通なのだな」と、一度立ち止まって理解しようとする姿勢が自然と生まれるようになりました。
また、自分自身の価値観に対しても、以前よりも客観的に見られるようになりました。「なぜ自分はこれを『良い』と思うのだろう」「なぜこれが『当たり前』だと感じるのだろう」と、その根拠や背景を問い直すようになったのです。これは、他者との違いを理解するだけでなく、自己理解を深める上でも非常に重要なプロセスでした。
異文化の中で「当たり前が崩れる」体験は、決して楽なことばかりではありませんでした。時には孤立を感じたり、自信を失いかけたりすることもありました。しかし、その一つ一つの経験が、自分の中の凝り固まった「普通」という枠を取り払い、視野を広げ、多様な価値観を受け入れる土壌を育ててくれたと感じています。
この体験は、海外での生活を終えて日本に戻ってきてからも、私の人間関係や物事の見方に影響を与え続けています。自分とは異なる考えを持つ人に出会った時、すぐに否定したり判断したりするのではなく、「なぜそう考えるのだろう」と耳を傾ける姿勢を持つこと。そして、自分自身の「普通」もまた、特定の環境で育まれたものであり、絶対的な基準ではないことを忘れないこと。これらのことは、異文化体験が私にもたらしてくれた、かけがえのない学びです。日常の「当たり前」が崩れる経験は、自分を解き放ち、世界をより広く、深く見つめるための扉を開いてくれるのだと感じています。