私の異文化体験談

「ルール」に対する異文化の感覚に触れて見えたもの:自分の中の「正しさ」と価値観の変化

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私の海外移住体験の中で、特に強く印象に残っているのは、「ルール」に対する感覚の違いに触れたことです。日本で育った私は、社会のルールや約束事に対して、比較的厳格であるべきだという価値観を持っていました。公共の場でのマナーや交通ルール、締め切りを守ること、行列にきちんと並ぶことなど、それは「当たり前」であり、守らない人は「正しくない」という、ある種の基準を自分の中に持っていたように思います。

しかし、海外で生活を始めてすぐに、その「当たり前」が全く通用しない場面に数多く遭遇しました。最初のうちは、そういった光景を見るたびに、心の中で戸惑いや、時には小さな苛立ちを感じていました。「なぜ、ここで信号無視をするのだろう」「なぜ、列に割り込むのだろう」「なぜ、約束の時間に平気で遅れるのだろう」といった疑問が次々と湧いてきたのです。それは単にルールの違いというよりも、「何が正しい振る舞いなのか」という根源的な価値観が揺さぶられる経験でした。

公共交通機関での静かな驚き

特に鮮明に覚えているのは、とある国の公共交通機関での出来事です。日本では、電車やバスの中で静かに過ごすことが美徳とされ、大きな声で話したり、電話で通話したりすることはマナー違反とされています。私もその価値観を強く持っていました。

しかし、その国の電車やバスの中では、人々はごく自然に大きな声で談笑したり、電話で長々と話し込んだりしていました。もちろん、中には静かに過ごしている人もいましたが、多くの人にとってそれは全く問題のない行為のように見えました。最初は「なんて騒がしいのだろう」「公共の場なのに」と感じ、まるで自分が「正しさ」の側にいて、彼らが「正しくない」側にいるかのような感覚に陥りました。

しかし、日々そういった光景に触れるうちに、少しずつ感じ方が変わっていきました。彼らにとっては、公共交通機関は単なる移動手段であると同時に、友人や家族とのコミュニケーションを楽しむための空間でもあるのかもしれない、と思うようになったのです。彼らの話し声や笑い声は、私にとっての「騒音」ではなく、彼らの社会における人間関係のあり方の一端を示しているのではないか。もちろん、場所や状況によっては静かにすべきだという暗黙の了解はあるのでしょうが、少なくとも日本ほど「静寂こそが美徳」ではない、ということが分かってきました。

「正しさ」の基準はどこにあるのか

この経験は、私にとって「正しさ」とは何か、そしてその基準は誰が、どのように決めるのか、という問いを投げかけました。私が当たり前だと思っていた「公共の場では静かにする」というルールは、万国共通の絶対的な正しさではなく、日本の文化や社会の中で育まれた特定の価値観に基づいたルールだったのです。

現地の友人たちと話してみると、彼らは彼らなりに大切にしているルールやマナーがあり、それらは日本人とはまた違った文脈で成り立っていることが分かりました。例えば、家族や友人を非常に大切にし、困っている人がいれば見返りを求めずに助けるといった行動は、彼らにとっては当然の「正しい」振る舞いでした。それは、日本の「他人に迷惑をかけない」という「正しさ」とは異なるベクトルを持った価値観です。

自分の持っていた「正しさ」の基準が、実は非常に限定的なものであったことに気づいたとき、世界が少し違って見え始めました。自分が「おかしい」「間違っている」と感じていた他者の行動も、彼らの文化や価値観、そして彼らが生きる社会の仕組みの中では、彼らにとっての「正しい」あるいは「適切な」行動である可能性を考えるようになったのです。

価値観の相対化と多様性の受容

この異文化体験を通して、私は自身の価値観を相対化することを学びました。自分が「正しい」と信じていることは、あくまで数ある「正しさ」の中の一つにすぎないのかもしれない。そして、異なる「正しさ」が存在することを認識し、それを頭ごなしに否定するのではなく、理解しようと努めることが、異文化の中で生きていく上で、そして多様な人々と関係を築いていく上で、いかに重要であるかを痛感しました。

もちろん、社会の根幹をなす法律や、人権に関わるような普遍的な規範は守られるべきものです。しかし、日常生活における些細なルールやマナーに関しては、そこに絶対的な基準はなく、それぞれの文化や社会が持つ歴史や価値観によって形作られている場合が多いのではないでしょうか。

この気づきは、私の人間関係にも変化をもたらしました。自分と異なる考え方や行動様式を持つ人に対しても、すぐに「違う」「間違っている」と判断するのではなく、「なぜそのように考えるのだろう」「どのような背景があるのだろう」と、一度立ち止まって考えてみる習慣がつきました。それは、相手に対する敬意でもあり、自分自身の視野を広げるための大切な姿勢だと感じています。

異文化での「ルール」を巡る体験は、私にとって、自分の中の「正しさ」という枠を取り払い、多様な価値観が共存する世界を、より広い心で受け入れるための一歩となりました。それは、ときに心地よいものではありませんでしたが、間違いなく私の人生を豊かにしてくれた貴重な経験です。