私の異文化体験談

「ありがとう」と「ごめんなさい」の重み:異文化の表現から見えた人間関係の距離感と価値観の変化

Tags: 異文化コミュニケーション, 人間関係, 価値観の変化, 海外体験, 言葉の文化

異文化の「言葉」が教えてくれること

海外に移住して以来、様々な文化を持つ人々と関わる機会に恵まれています。異なる言語、異なる習慣、異なる考え方。その全てが学びの対象であり、驚きと発見の連続です。特に興味深く、そして当初は戸惑いも大きかったのが、日常的なコミュニケーションにおける「ありがとう」と「ごめんなさい」といった言葉の使い分けや、それに込められる意味合いの違いでした。

私たちは、言葉を通じて相手と関係を築き、自分の感情や意図を伝えます。しかし、その言葉一つ一つに、自分が育ってきた文化の価値観や人間関係のあり方が深く反映されていることに、異文化の中で暮らすことで改めて気づかされました。単なる言語の壁を超えて、その言葉の背後にある「重み」や「目的」を理解しようと努める中で、私自身の人間関係や価値観も少しずつ変化していったように感じています。

感謝の表現にみる関係性の築き方

まず、「ありがとう」についてです。日本では、何かをしてもらった時だけでなく、相手に手間をかけさせてしまった時や、申し訳ない気持ちを表す場面でも「すみません」という言葉を使うことが多いと感じます。もちろん、「ありがとう」と明確に感謝を伝える場面もたくさんありますが、どこか控えめに表現したり、相手の労力を慮って恐縮する気持ちを先に表したりすることも少なくありません。

一方、私が暮らしたある国では、感謝の気持ちを非常に率直かつ明確に伝える文化が根付いているように感じました。例えば、お店でサービスを受けた時、友人から小さな手助けを受けた時、知人に道を尋ねた時など、あらゆる場面で「Thank you」という言葉が自然に飛び交います。それは単なる形式的な挨拶ではなく、相手の行動に対する明確な評価と感謝の意が込められているように見えました。

最初は、些細なことにもいちいち「ありがとう」と言うのが少し気恥ずかしいと感じた時期もありました。しかし、相手がその言葉を受け取った時の、曇りのない笑顔や「You are welcome」(どういたしまして)という快い返答を見るにつけ、感謝をオープンに表現することが、人間関係にポジティブな影響を与えるのだと肌で感じるようになりました。感謝を明確に伝えることは、相手の行為を認め、尊重することであり、それが相互の信頼関係を深めるきっかけになるのです。

日本の文化にある「謙遜」や「遠慮」の美徳も理解できますが、異文化での経験を通じて、感謝の気持ちは出し惜しみせずに伝えることの重要性を学びました。それは、相手との間に健全な「貸し借り」ではなく、「与え合い」の関係性を築く上で、非常に有効なコミュニケーションだと気づかされたのです。

謝罪の表現にみる責任と関係性のあり方

次に、「ごめんなさい」にあたる謝罪の言葉についてです。日本には、自分の非が明確でなくても、相手に不快な思いをさせたり、場の空気を乱したりしたかもしれないと感じただけで謝罪する習慣があるように思います。「すみません」は、謝罪だけでなく、呼びかけや感謝の意味も持ちうる非常に多機能な言葉です。そこには、相手への気遣いや、波風を立てたくないという集団の中での調和を重んじる気持ちが強く反映されているように感じられます。

しかし、私が暮らした文化圏では、謝罪はより明確な責任の認知や、問題解決への意志を示すために用いられることが多いように感じました。もちろん、感情的な謝罪がないわけではありませんが、謝罪の言葉の後に「次はこうします」「どうすればこの問題を解決できますか」といった具体的な行動や提案が伴うことが一般的です。

例えば、集合時間に少し遅れてしまった時、日本では「遅れてしまってすみません」と繰り返し謝罪し、恐縮する姿を見せることが誠意の表れと見なされがちかもしれません。しかし、異文化では、まず「遅れてごめんなさい」と簡潔に謝罪し、その理由を説明した後、「急いで支度をしてすぐに来ました」「次はもっと早く出られるようにします」といった行動や改善策に言及することが期待される場合があります。

最初は、日本的な「すみません」という言葉が咄嗟に出てしまい、相手に「なぜそんなに恐縮しているのだろう」と不思議に思われたり、逆に「本当に自分の非を認めているのだろうか」と疑問に思われたりしているのではないかと感じたこともありました。謝罪の言葉が、相手への配慮や共感を示すためというよりも、事実関係を認め、責任を明確にし、今後の再発防止に繋げるためのもの、という側面が強いのだと理解するのに時間がかかりました。

この経験を通じて、私は謝罪に対する価値観が変化しました。謝罪は、単に自分の非を認める行為だけでなく、事態を改善し、関係性を修復するための建設的なステップであると考えるようになったのです。そして、言葉の背後にあるその文化の「責任」や「問題解決」に対する考え方、さらには個人と集団の関係性のあり方までが見えてくるようでした。

言葉の奥深さに触れて

異文化の中で「ありがとう」や「ごめんなさい」といった日常的な言葉の使われ方やその重みに触れた経験は、私にとって非常に貴重なものでした。それは、単に外国語を学ぶこと以上の、文化的な価値観や人間関係の深層に触れる機会だったからです。

感謝を明確に伝えること、そして謝罪に責任と問題解決の意思を込めること。これらの異文化におけるコミュニケーションのあり方は、日本で育まれた私の言葉に対する感覚や、人間関係における「当たり前」を大きく揺さぶるものでした。そして、これらの経験は、相手の言葉の表面的な意味だけでなく、その言葉が育まれた文化的な背景や、そこに込められた意図を理解しようと努める姿勢を私に与えてくれたように思います。

言葉は、文化を映し出す鏡です。異なる文化の言葉に触れることは、その文化の人間関係の距離感、価値観、そして人々の心の動きを理解する鍵となります。そして、その理解は、他者とのより豊かな関係性を築くための、何より自分自身の視野を広げるための大切な一歩になるのではないでしょうか。